ファンタジア
――あるところに、ひとりの少女がいました。
少女は騎士の家の一人娘だったので、家を継ぐために騎士見習として戦へ行きました。
しかし、遠い国での戦に負け、少女は捕まってしまいました。
その国の人達はとても残酷で、捕まったら殺されてしまう、と教えられていたので、自分もきっと殺されるだろう、と少女は思っていました。少女は、敵国の総大将の前に連れ出されました。
総大将は、少女と同じ年頃の少年でした。敵国の王子だったのです。王子は少女を殺せとは言いませんでした。少女は、同じように敵国の捕虜になった病人や女性や子どもたちの世話をするようになりました。一人ではとても大変なことでしたが、王子や敵国の騎士たちが、少女の手助けをしました。彼らが、祖国の人達が言っていたような残酷な人達だとは少女には思えませんでした。
一方、王子も、自分にとっては敵国の人間である少女に、同じような印象を持ったようでした。少女のことを気にかけ、まるで友人のように親しく話しかけてきます。最初は王子に反発していた少女でしたが、少しずつ打ち解けるようになっていきました。
物語はそこで終わった。
幼いわたしは、月明かりのやわらかく差し込む部屋の寝台でその物語を聞いていたのだが、起き上がって尋ねた。
「それで? そのつづきはどうなったの?」
母はすぐには答えず、微笑みながらわたしの髪を撫でた。わたしの髪は母と同じ淡い褐色。会う人はみんな、わたしと母がよく似ていると言った。
母の少女の頃に似ていると言う人もいた。それは髪の色や顔立ちではなく、性格のことを言っているのだと知ったのは、もう少しあとのことだ。どちらにせよ、母と似ていると言われることは嬉しいことだった。
「そんなの決まってるじゃないか。その王子さまと結婚していつまでも幸せにくらしましたとさ、めでたしめでたし、だろ」
母の代わりに、ニ歳違いの兄がつまらなさそうに言った。わたしは頬を膨らませて反論した。
「だって、おんなのことおうじさまはてきどうしなんでしょ? かんたんにけっこんなんてできないよ。ほかのおはなしでも、よくそういっておひめさまがないてるもん」
「そんなこと言ってたって、どうせ最後には結婚してるじゃないか。そんなものだろ、おとぎ話なんて」
「そうかなあ。かあさま、どうなったの? おしえてよ」
わたしたちの口論を、微笑んだまま見守っている母の袖を掴んでねだっていると、部屋の扉が開く音がした。
「賑やかだな。何の話をしているんだ?」
優しい声に、振り向いた母の顔がほころんだ。その肩越しに見えた姿に、わたしと兄は声を上げた。
「父上!」
「とうさま!」
競うように寝台から下り、父に飛びつく。父は兄の頭を撫で、わたしを抱き上げた。
「かあさまに、おはなしをしてもらってたの」
「どんな話だい?」
父に促され、わたしは拙い口調で一生懸命に物語を伝えた。父は頷きながら話を聞き、わたしが話し終わると、母のほうに視線を向けて微笑んだ。母は何故か少し怒ったような顔で、頬を染めて横を向いていた。
「それでね、かあさまは、おんなのことおうじさまがそのあとどうなったのか、おしえてくれないの。とうさま、しってる?」
わたしの問いに、父は笑って頷いた。あたたかい掌が、わたしの髪を優しく撫でた。
「ああ、よく知ってるよ」
「ほんとう? じゃあ、とうさまがおはなししてよ」
「今夜はだめだ」
「ええー!?」
「どうして!?」
不満の声が、隣からも聞こえた。兄が父の上着のすそをつかんで、怒った顔で見上げている。つまらなさそうな顔をしていたのに、本当は兄も興味津々だったのだ。父は抱き上げていた私を降ろし、腰をかがめて、兄とわたしの目の高さで視線を合わせた。
「とても長いお話なんだ。一晩では語り終えられない。……それに、そのお話は、実はまだ終わっていないんだ」
「おわってないの?」
「そうだよ。それに、ほら」
父は窓の外を指差した。煌々と輝く月が、窓から見える大きな屋根の真上に浮かんでいる。
「ごらん、月があんなに高く上っている。もう眠らないと、起きられなくなってしまうよ。今朝も寝坊して怒られたんだろう?」
最後の言葉に、わたしは兄と顔を見合わせた。兄が肩をすくめた。父の言うとおり、わたしと兄は、前夜も夜更かしをしたせいで寝坊して歴史の授業に遅刻し、先生に大目玉を食らったのだ。
「さあ、もうおやすみ。いい子にしていたら、また続きを聞かせてあげるから」
「……はぁい」
しぶしぶ頷き、わたしと兄は寝台にもぐりこんだ。わたしたちの様子を見守っていた母が、微笑みながらわたしと兄の髪を撫でてくれた。その傍らに父が立っている。父も微笑を浮かべている。その目に浮かぶ優しい光は、先程窓の向こうに見た月のようだった。
とうさまのめにも、おつきさまがいるわ。わたしはそう思いながら、瞼を閉じる。心地よいまどろみの中に沈みながら、ふと、先程の母の話を思い出した。
おうじさまのひとみは、きれいなよぞらのいろ。そういってたっけ。
とうさまとおんなじいろだわ。
――幼い兄妹が、安らかな寝息をたて始めた。その寝顔を見守っていた若い父親は、母親に視線を向ける。月の光を浴びた横顔は、穏やかで慈愛に満ちている。
彼の視線に気づいて、彼女が顔を上げ、正面から彼を見つめた。初めて出会った頃の、勝気で意地っ張りで、無謀なほど勇敢だった少女の面影がそこにあった。彼は微笑んだ。
「素敵な話だね」
彼の言葉に、彼女は頬を染め、慌てたように視線をそらした。
「からかうな」
「からかってなんていないよ。嬉しかったんだ、あんな風に話してくれて」
怒ったように呟く彼女に、彼は素直にそう告げた。彼女は視線をそらしたまま、俯いた。
「……わたしが知っているどんな物語よりも、いいって思ったから」
「そうだね。奇想天外で波乱万丈だ。おまけに、結末がまだ分からない」
冗談めかした言葉に、彼女がクスリと忍び笑いを漏らした。ぎこちない仕草で、彼の肩に頭を預ける。
「そうだな。わたしにも、どんな風に終わるのか、まだ想像できない。……でも」
彼女が眼を閉じる。滑らかな頬の上に、長い睫毛の影が落ちた。
「決められたものだと誰もが思っていた筋書きを、意志の力で覆して未来をつかむ瞬間を、わたしは見たことがある」
肩を抱く掌の上に、彼女の掌がそっと重なった。
「結末が分からなくても、恐れる必要なんてないんだって、あのとき知った。教えてくれた人は、いま、ここにいる。だから……」
途切れた彼女の言葉の続きを、彼は促さなかった。肩を抱いたまま、彼も眼を閉じた。
少女と敵国の王子さまは、結婚していつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。
お伽話として語るには平凡な結末。けれど、決して平坦な道のりではなかった。彼にとっても、彼女にとっても。手にした栄光と引き換えに失ってきたもの、二度と取り戻せないものを思い浮かべる。かつての敵国で、彼に寄り添って生きる彼女は、もっと多くのものを失ってきたはずだ。穏やかな表情の下に閉じ込められた彼女の苦悩を思った。
「エステル」
呼びかけると、彼女は顔を上げて彼を見つめた。蜂蜜色の瞳には、迷いの影はなかった。彼は微笑みを向けて続けた。
「私たちも休もう。国王一家がそろって寝坊なんかしたら、皆に示しがつかない」
「そうだな」
頷いた彼女に手を差し出す。その手をとって立ち上がった彼女を、そのままゆっくりと導いていく。右膝を少し引きずっている彼女の負担にならないよう、ゆっくりと。
多くのものを失うことを知っていながら、彼女はここで生きることを選んだ。彼のそばで。彼もそう望んだ。そして、望んだとおりになった。
その選択は間違っていなかった。そう証明し続けなくてはならない。彼女のために。彼自身のために。愛しい子どもたちのために。彼らを守り、導いてくれたすべての人のために。
彼らの物語は、まだ終わっていないのだ。
扉の前で足を止め、もう一度寝台を振り返る。やわらかな月明かりに包まれて眠る幼い兄妹の姿に目を細める。
この子たちは、これからどんな物語を描き出すのだろう。幸せな物語であってくれればいい。
そう願いながら、二人は静かに寝室の扉を閉じた。