銀色の刃が、星空を映して淡く輝く。

 丹念に磨き上げられた長剣には、僅かな曇りも残っていない。そのことを確認すると、ダリューンは剣を鞘に戻し、天幕の前に腰をおろした。無言のまま、周囲の気配を確かめる。宿営を整える前に地形をよく調査し、斥候も放った。ガーデーヴィ軍もラジェンドラ軍も、この陣営からは遠く離れている。敵襲の恐れはない。また、この天幕の周囲も、彼だけでなく多くの兵士が配置され、厳重に警備されている。そのことはよく承知しているが、やはり油断は禁物だ。剣に触れる指先に、自然と力がこもった。

 警護する天幕の中にいるのは、ダリューンより十三歳年少の主君。
 彼の武勇と忠誠、すべてを捧げるべき人だ。



 “アルスラーン王子個人に忠誠を誓うこと”。

 アトロパテネの会戦の直前、伯父ヴァフリーズと交わした約束を、ダリューンは一時も忘れたことはなかった。もとより王家への忠誠心の厚い彼であったが、アトロパテネからペシャワールへ、そしてこのシンドゥラへの長い旅路を共にし、アルスラーンの人柄を知るにつれ、伯父との約束はより神聖なものへと形を変えていった。
 王宮で何度か言葉を交わしたこともあったから、聡明で優しい少年であることは以前から知っていた。ダリューンを驚かせたのは、アトロパテネの悲惨な敗戦と、それに始まる苦難の日々を経たにも関わらず、アルスラーンのそうした美点が少しも損なわれていないことだった。また、年齢の近いエラムやアルフリードと知り合い、彼らとの会話の中で屈託のない笑い声が響くこともある。そういった闊達さもまた、この少年の本来の姿であるらしかった。
 苦境にあっても自分を見失うことなく、苦難を糧にして自分を成長させる強さを、この少年は持っている。そのことを、ダリューンは当のアルスラーン以上に誇らしく感じていた。

 この方の力になりたい。
 険しい道を歩まねばならぬこの方を支える、揺るぎのない力に。

 王宮では知りえなかった主君の一面に触れるたび、その思いは強くなった。



 そのアルスラーンは今、天幕の中で眠りについている。
 ――安らかな眠り、とは呼べない。
 時折、微かにうめくような声を漏らしながら寝返りを打っている様子が、外に座すダリューンの耳に届いている。主君を苦しめているのが、戦場に身を置いている緊迫感や、初めて訪れる異国の慣れぬ気候、故国を離れている心細さなどではないことを、ダリューンは知っていた。
 知っていても、どうすることも出来ない。
 白刃を振りかざして襲い掛かってくる相手ならば、彼の剣で幾人でも斬り倒してみせる。だが、悪夢が相手ではどうしようもない。
 その悪夢は、アルスラーンの不安に根付いているものであるからだ。

 自分の正体がわからないという、根源的な不安に。

 大きく息を吐き出す音がした。続いて、微かな布の音。天幕の中で、主が目を覚ましたらしい。ダリューンは天幕の側に跪き、殿下、と静かに呼びかけた。
「……ダリューン、か?」
 声は、どこか覚束なげな響きだった。許可を得て天幕の中に入る。アルスラーンは寝台の上に身を起こしていた。やや青ざめた顔はまだ夢の中をさまよっているような表情だったが、歩み寄ってきたダリューンに視線を移すと、安堵したようにため息をついた。
「……私は、うなされていたのか」
「はい、少し」
「そうか、心配をかけたな。すまなかった」
 もう大丈夫だ、と言いながらアルスラーンは微笑した。それが、ダリューンをそれ以上心配させないための方便であることは明白だった。若すぎる主君の不安を取り除くことも出来ず、要らぬ気遣いをさせてしまったことに、胸が痛んだ。
 水をお持ちしましょうか、という彼の言葉にもアルスラーンは首を振ったが、ふと天幕の入り口から漏れてくる星明りに目を止めた。その様子を見て、あらたな提案をする。
「少し、外の空気をお吸いになりませんか」
 アルスラーンは少し考え込む様子を見せ、やがて頷いた。夜着の上から厚手の上掛けを羽織ると、ダリューンの後について天幕の外へ出た。



 真冬の星空は、雲ひとつなく晴れわたっている。手が届きそうだ、と、アルスラーンは少年らしい素直な感嘆の声をあげた。その傍らで、ダリューンは主君のために火をおこした。すぐ側であたたかく揺らめくもうひとつの光に、アルスラーンは表情をほころばせ、ダリューンと並んで腰をおろした。
「ありがとう。……いつも、こんなに遅くまで起きているのか?」
 火に手をかざしながら尋ねる。それが務めでございますから、という答えに申し訳なさそうな表情を浮かべた主君に、ダリューンは微笑して続けた。
「夜更かしは慣れておりますから、お気になさらず。ナルサスが王宮におりました頃は、よく朝まで飲み明かしたものでした」
 それを皮切りに、いくつかの思い出を語って聞かせる。酒を酌み交わしながら語り合ったことや、今よりもさらに若かった二人のいくつかの失敗談。そのどれもが些細な出来事であったが、アルスラーンは頷きながらそれを聞き、時折小さく肩をすくめて笑った。
「そういえば、私も以前はときどき夜更かしをしていたな」
 ダリューンの話が途切れると、今度はアルスラーンがそう切り出した。
「王宮に入る前、こんな風に星のきれいな夜に……」
 いったん言葉を切って、夜空に視線を巡らせる。
「近所の何軒かで集まって、ときどき星空の下で宴をしていたんだ。大人たちが飲んでいる間、私は他の子どもたちとずっと一緒に遊んでいた。この日だけは、遅くまで遊んでいても叱られなかったから」
 星空と同じ色の瞳は、それよりももっと遠い場所を見ているようだ。
「なんだか、そのときのことを思い出したな」
 炎に視線を戻し、呟く。続いて小さなあくびが漏れた。慌てて手で口元を覆ったアルスラーンに、ダリューンは笑いかけた。
「夜更かしも過ぎれば身体に毒ですし、たまにやるのが楽しいもの。そろそろお休みになったほうがよろしいかと存じます」
「……そうだな」
 アルスラーンは立ち上がり、天幕の中へ戻りかけたが、ふと足を止めてダリューンを振り返った。
「楽しい話が聞けて良かった。また、こうして夜更かしに付き合ってもらえないか?」
「殿下がお望みなら、いつでも」
「ありがとう」
 微笑したアルスラーンの顔からは、悪夢から覚めたときの憂いの影は消え去っていた。ダリューンは一礼して主君を見送り、再び天幕の入り口に腰を据えた。アルスラーンが寝台にもぐりこんだ音を最後に、天幕を静寂が包んだ。主君が今度こそ、安らかな眠りについたらしいことを悟って、ダリューンは肩の力を抜いた。

 主君を苦しめた悪夢は、今夜はもう訪れることはない。
 だがそれは、あくまで今夜だけのこと。楽しい思い出にひとときだけ気分を紛らわせたとて、悪夢の根源となった不安が消え去ったわけではない。いずれまた、悪夢は牙を剥き出しにしてアルスラーンを襲うだろう。何度でも。
 遠からず、アルスラーンは過去と向き合わねばならぬはずだ。そうしなければ、悪夢は終わらない。

 そのときにこそ、彼の支えにならなくてはならないのだ。

 ダリューンは身じろぎもせず、目の前で燃える炎を見つめた。
 闇を払い、周囲をやわらかく照らし、あたためる小さな炎。

 あなたの力になりたいのです。
 この灯のように、あなたの悪夢を払い、行く道を照らす力に。

 決意の強さを示すように、剣に触れる指先に力がこもった。