愛だけを残せ
「はい、おまち。……おや、あんたたちかい。久しぶりだね」
湯気を立てる料理の皿を卓上へ置いた女主人は、卓に向かい合って座っている二人の客に笑みを向けた。談笑していた客の片方が、女主人を見上げた。端整な顔立ちに、少年のような笑顔が浮かんだ。
「おばさん、こんばんは。久しぶり」
「しばらく見なかったけど、忙しかったのかい」
「うん、ちょっとね」
「お役人は大変だねぇ。まだ若くて下っ端だから、雑用ばかり押し付けられているんだろ」
女主人の言葉に、二人は顔を見合わせ、肩をすくめた。
王都エクバターナの市場の中心にあるこの食堂を経営していたのは女主人の夫だったのだが、ルシタニア軍の王都占領の折に死んだ。王都が解放されてしばらく経ってから、娘とともに食堂を再開し、そろそろ三年。王都に賑わいが戻るとともに、この食堂にも以前のように客が訪れるようになった。
この二人の客が店を訪れるようになったのは、一年ほど前のことである。商人や職人の客が多い店の中にあって、二人は、他の客とは少し趣が異なっていた。
二人とも、年のころは十七、八といったところだろう。この店の客の中では、最も若い客層ということになる。しかし、年齢にしては大人びて、落ち着いた雰囲気がある。恐らく若いうちから仕事をしているのだろう、と女主人は観察していた。ただ、どう見ても商人や職人などではなかった。とりたてて華美に着飾っているわけではない。しかし、着ている服の仕立ては丁寧で、布地の質もいい。服ばかりでなく、立ち居振る舞いや言葉遣い、表情にも、どことなく他の客にはない気品が感じられる。しかし、お高くとまっている様子ではなく、他の客とも親しげに話し、笑い声を立てているのを何度か見かけた。
若者の一人は、いつもつばのない白い帽子を被っている。端整な顔立ちで、黒とも青ともつかない美しい色合いの瞳が印象的だった。貴族的な容姿だが、いつも穏やかに微笑んでいて気さくな人柄である。もう一人の若者は、黒い髪に小麦色の肌をしていて、知的な容貌をしており、帽子の若者に比べて口数がやや少ない。二人はとても親しげだが、黒髪の若者の方が、帽子の若者に敬意を払っている様子だった。
さりげなくこうした観察を続け、女主人は、帽子の若者は下級貴族か富裕な商人の子息で王宮に勤める若い役人、黒髪の若者はその従僕、と、二人の正体を推測していた。
「久しぶりなんだ、ゆっくりしておいき」
「ありがとう、おばさん」
帽子の若者が微笑む。その表情が、女主人の記憶を呼び覚ましかけた。
女主人が、この二人の客を気にかけているのは、他の客と雰囲気が異なるせいばかりではなかった。帽子の若者に、どこか見覚えがあるのだ。ただ、それがどこだったのか、いつのこととだったのかは思い出せない。もどかしい思いで、女主人は軽く自分の頭を叩きながら、他の卓へ向かった。
「……ああ、そうだ、思い出したよ」
唐突に声をあげた女主人を、帰ろうと席を立ちかけた若者たちはきょとんとした顔で見上げた。女主人は、白い帽子の若者をまじまじと見つめながら続けた。
「前々から、あんたをどこかで見たような気がすると思ってたんだよ。やっと思い出した」
女主人の言葉に、若者はぎくりと身をこわばらせた。気まずげな表情で、黒髪の若者と素早く視線を交わす。女主人は、二人の反応に気づかず続けた。
「十八年くらい前だったかねえ。あんたにそっくりなお客さんがいたんだ。年のころは、あんたより少し上だったかな」
若者たちは安堵したような表情でほっと息をついた。女主人はなおも記憶を探りながら続けた。
「あのお客さんは、たしか……騎士さまだとか言っていたね。かわいそうに、結婚して子どもも生まれたのに、すぐに奥さんに先立たれて、そのあとすぐに戦で死んじまったとか」
帽子の若者が、衝撃を受けたように大きく目を瞠った。何かを言い出そうとするように、唇を動かしかけたが、何も言葉は発せられなかった。黒髪の若者が、彼に気遣わしげな視線を向けたあと、代わるように口を開いた。
「おばさん、その人の名前知ってる?」
「さあ……なにぶん昔のことなんでね、思い出せないんだよ」
女主人は首をかしげるようにして呟いた。帽子の若者は、落胆したような表情になり、肩を落とした。普段は明るい彼の、初めて見せるその姿に、女主人は動揺し、おろおろと声をかけた。
「……もしかして、知っている人なのかい」
「いや……わからない。探している人かも知れないと思ったんだ」
「そうかい……すまなかったね、名前を覚えてなくて」
「いいんだ」
ゆるゆると頭を振ると、帽子の若者は、気を取り直すようにほっと息をついて顔を上げた。
「それより、よかったら聞かせて欲しい。その騎士はどんな人だった?」
女主人に向けた微笑は穏やかだった。その微笑が、女主人の記憶を少しずつ呼び起こした。
「結婚することになったよ」
若い騎士は、照れたように笑いながらそう言った。周囲の客から、どっと祝福の歓声が起こった。女主人は(当時の店の主は彼女の夫であったが)、冷えた麦酒を一人ひとりに配りながら微笑んだ。
「そうかい、よかったねえ。相手はどんなひとだい」
「父がお世話になっていた方のお嬢さんで、優しくてしっかりした人だよ」
騎士の父親は、彼が幼い頃に病で亡くなったという。騎士というより、どこか学者めいた穏やかな顔を、そのときは目いっぱい幸せそうに綻ばせていた。よかったねぇ、と女主人は繰り返した。客たちの中で最もおとなしく、頼りなげに見えるこの若い騎士を、彼女は息子のように可愛がっていた。
「ありがとう、おばさん」
少年のように満面に笑みを浮かべて、騎士は何度もそう言った。
「もうすぐ子どもが生まれるんだ」
結婚から一年近く経った八月の終わりごろ、久しぶりに店を訪れた騎士はそう告げた。
「おめでとう。立派な跡継ぎが生まれるといいねぇ」
「うん、でも、男でも女でもいいんだ。元気に生まれてくれさえすれば」
そう言ったあと、騎士はふと不安そうな表情をした。
「妻はあまり身体が丈夫ではないから、それが心配だけど」
「大丈夫さ」
元気づけるつもりで、根拠もなくそう言った。騎士は「そうだな」と頷き、「今度は妻と子どもを連れてくるよ」と明るく笑って去っていった。しかし、実現することはなかった。
一月ほど経って、騎士と親しい他の常連客から、騎士の妻が出産して十日ほどで亡くなったと聞いた。子どもは男の子だったという。騎士はひどく塞ぎ込み、途方にくれているようだ、と常連客たちは語った。
その騎士が、それからさらに十日ほど経って店を訪れた。
「さる身分の高いお方が、奥方に子が生まれないので、養子を欲しがっていたんだ」
騎士は麦酒に手をつけず、訥々と語った。
「子どもを手放したくはなかったけれど、父親だけでは育てられない。私も妻も、他に頼れる親族はいなかったし」
以前訪れたときとは別人のようにやつれてしまった騎士の前に、女主人は温かいスープの皿を置いたが、騎士はそれにも手をつけず、自分に言い聞かせるように呟き続けた。
「そのお方の正統な跡継ぎとして育ててくださる、とおっしゃったんだ。不自由はさせない、教育もきちんと受けさせる、と約束してくださった。多分、あの子にとってはそのほうがいいんだ」
「……でも、それじゃあんたはどうするんだい。奥さんもいなくて、子どもまで取り上げられちまって、一人きりでどうするんだい」
言いながら、目に涙が浮かんだ。詰まった声に、騎士は初めて顔を上げた。女主人の目をまっすぐ見ながら、寂しげに、しかし穏やかに微笑んだ。
「私はいいんだ。一人でも何とかやっていける。それに、いつかあの子は、この国のために立派に働く人になるはずなんだ」
そこまで言うと、騎士はスープを口に運んだ。そして、深く息をつくと、ぽつりと呟いた。
「……いや、立派な人になるとかそんなことより、元気で、幸せに育ってくれさえすれば、それでいい。もう父親として会うことはできないけど、遠くから見守ることはできるんだ」
スープをゆっくりと口に運び、器が空になると、騎士は立ち上がった。
「近々、東方辺境へ出征がある。しばらくは来られないけど、戻ったら真っ先に来るよ」
「無事に帰っておいで」
女主人は涙声で言った。
「帰ってこなきゃ、その子を見守ることさえできやしないんだからね」
「わかってる。ありがとう、おばさん」
騎士は礼を言うと立ち上がった。店を出たところで振り返り、小さく手を振った。
それが、女主人が見た最後の姿になった。
「子どものことを、最後まで気にかけていたねえ」
女主人はぽつりと呟いた。若者たちは、じっと女主人の話に耳を傾けていた。
「子どもは今、どこでどうしているんだろうね。幸せに暮らしているならいいんだけど。できることなら、ほんとうの両親のことを教えてあげたいんだけどね。会えないまま、知らないままなんて、あまりにかわいそうじゃないか」
話しているうちに、また胸が詰まった。俯いて洟をすすっていると、帽子の若者が口を開いた。
「その子どもは今、心から信頼できる多くの人に囲まれて、幸せに暮らしている」
確信に満ちた声に、女主人は顔を上げた。若者は、まっすぐに女主人を見つめていた。わずかに潤んだ瞳が、灯下にきらめいていた。
「本当の両親に会ったことはなくても、自分に命と未来を与えてくれた人たちに、感謝を忘れたことはない。多くの人が、自分を見守ってくれていることも、ちゃんと知っている。そして、その人たちのために、自分のなすべきことを精一杯やりとげなければ、と思っている」
若者は、穏やかに、しかしはっきりとそう言いきったあと、「私は、そう思うよ」とつけ加えて穏やかに微笑んだ。その微笑は、昔、あの若い騎士が見せたものにやはりよく似ていた。
「そうだねえ。きっとそうだ」
女主人は微笑を返し、何度も頷いた。
市場にはもう夜の帳が下りている。夏は盛りを過ぎており、夜の人通りもしだいに少なくなってきていた。店の外へ出た若者たちは、振り返って女主人に手を振った。
「ごちそうさま、おばさん。また来るよ」
「はいよ。気をつけてお帰り」
騎士の面影の残る若者に手を振り返した女主人は、ふと空を見上げた。エクバターナを多いつくした夜空は、雲ひとつなく晴れ渡っている。優しく光る星々を数えるように視線をめぐらせた女主人は、その夜空の色が、あの若者の瞳の色と同じであることに気がついた。
「夜空の色の瞳、か。吟遊詩人の言うことみたいだねえ――」
呟いた瞬間にはっとした。
つい先日、市場へ買い出しに出かけたとき、広場で流しの吟遊詩人が歌っていたのだ。
――続いてご披露いたしまするは、当代一の大英雄、解放王アルスラーン陛下の歌にございます。
広場に集まっていた聴衆から歓声が上がった。即位から三年。王都のみならず、パルス全体を支配していた恐怖を鮮やかに追い払った若き国王に対する民衆の熱狂は未だ冷めない。さまざまな外敵を退ける一方、改革を着々と進める“解放王”を題材にした歌は数知れず作られ続けていたし、聴衆からも求められ続けていた。
しかし、民衆も吟遊詩人たちも、解放王の素顔を見たことはない。歌の中で、解放王の容姿を表すのはただ一節だけだ。“解放王の瞳は、晴れ渡った夜空の色”と。
もうひとつ、思い出したことがある。パルスの民なら誰でも知っていることだ。解放王アルスラーンは、前国王アンドラゴラス三世の血を引いていない。王子が生まれなかったので、騎士階級の家に生まれた男児を養子とし、後継者に定めたのだ。これは、国王自らが明らかにしたことだ。その国王の、十八歳の誕生日が間近に迫っているはずだった。
十八年。女主人の脳裏に、若い騎士の面影と、今しがた帰っていった若者の姿が浮かんだ。これは偶然だろうか? 何もかもがあまりに一致しすぎてはいないだろうか?
下級貴族出身の新米役人だと思っていたあの若者は、もしや――。
「かあさん!」
かけられた声にはっとして振り返る。誰もいなくなった店内で、女主人の娘が佇んでいた。
「どうしたの? そろそろ片づけないと。明日の準備が出来ないよ」
「ああ、そうだね。急がなくちゃ」
女主人は頷くと、あちこちの卓に残されたままの皿を重ね、洗い場へ運び込んだ。手を動かしていると、先ほど考えていたことが、あまりにも現実的ではないように感じられた。そう、そんなことがあるわけはない。
「そうだ、かあさん知ってる?」
女主人と並んで食器を洗いながら、娘がふと尋ねた。女主人は手を止めた。
「知ってるって何を?」
「ミスル軍がディジレ河を渡ってきたんですって。国王さまは明日にでもエクバターナをご出発なさるそうよ。もうすぐ即位記念日だというのに、たいへんね」
「ああ、そういえば買い出しのときに兵隊をたくさん見かけた気がするねえ」
女主人は答えながら、先程帰っていった若者たちの後姿を思い出した。そんなことが、あるわけはない。けれど――。胸が締め付けられるような痛みを、女主人はため息とともに吐き出した。
「ご無事で戻っていらっしゃるといいね」
「何言ってるの、かあさん。国王さまが負けるわけないわ」
「そうだねぇ」
女主人は頷いた。娘は訝しげに母親を見つめた。母がなぜ、これまでになく国王の身を案じるのか、娘には想像もつかないだろう。ものといたげな娘の視線に、女主人は曖昧に笑って答えた。
すべての片付けを終えて、店の扉を閉める前に、女主人はもう一度、通りへ出て星空を見上げた。人通りはすっかり絶えて、静かな市場に星々のかすかな光が降り注ぐように見える。
帽子の若者が、あの騎士の息子だとはっきりしたわけではない。彼は自分の身の上を語りはしなかった。けれど、彼が語ったことは真実だと、そう思えた。若者の正体よりも、そのことの方が重要に思えた。
今度あの子たちが来たら、温かいスープを出してあげよう、と女主人は思った。あの別れの日、若い騎士に出したものと同じものを。それだけで、彼らには伝わるはずだ。
彼らはきっと、いつもと同じように、二人で親しく会話を交わし、時折周囲の客たちと笑いさざめきながら、それを食べるだろう。わたしはただ、それを見守っていよう。
だから、どうか無事で帰っておいで。
満天の星空にそっと呼びかける。星が微かに瞬きを返した。まるで、あの若者が頷いたように、女主人には感じられた。