60日間世界一周




「ギーヴ、出かけるのか」
 軽い足取りで回廊を歩いていたギーヴは、呼び止める声に振り返った。佇んでいるのは、パルス最高の勇将ダリューンだった。頷いたギーヴに、ダリューンは続けて尋ねた。
「どこへ行くんだ」
「野暮なことを聞かないでくれよ。日が暮れてから男が出かけていく場所なんて限られているじゃないか」
「……まあ、そうだな」
 ダリューンは頷くと、少しためらう様子を見せたあと、改まった様子で「ギーヴ」と呼びかけた。
「妓館通いを咎めるつもりはないのだが、その……少しばかり、回数を減らしてくれんか」
「減らす? なぜ? ギランには六十ヶ国の美女が揃っているんだぜ。一日だって惜しんではいられんだろう」
「その、六十カ国のことなんだ」
 ダリューンはため息混じりに、先日アルスラーンが、ギーヴの妓館通いに触れて言った冗談を口にした。
 “一夜に一カ国をまわるとしても、世界をめぐるのに二ヶ月かかるわけだ。たいへんだな”
「へぇ、殿下がそんなことをね。なかなかうまいことを仰るじゃないか」
「笑いごとか」
「そんな冗談くらいで、神経質にならんでもいいと思うがね。まあ、ダリューン卿がご心配なら、明日から少し前向きに検討するとしよう」
 言い残すと、ギーヴは軽やかに手を振って歩き去った。「明日から、か」と呟くダリューンの声は、聞こえなかったことにした。

 王太子府の門を出たところで、遠乗りから戻ってきたアルスラーンとエラムに行き会った。
「ギーヴ、出かけるのか?」
「おや殿下、噂をすれば」
「噂?」
「いえ、ちょっと諸国周遊の旅に出て参ります」
「……そうか」
 “諸国周遊の旅”が何を意味するのか一瞬考えてから、アルスラーンは頷いた。ギーヴはニヤリと笑って続けた。
「よろしければ、殿下もご一緒にいかがですか」
「せっかくだが遠慮しておくよ。これからナルサスに天文学を教わることになっているし、ギーヴも一人旅の方が気楽だろう?」
 悪魔の誘惑を、アルスラーンは屈託なく笑って退けた。ギーヴは肩をすくめる。ダリューン卿はなんと心配性であらせられることか。主君はこんなにも真面目でしっかりしているというのに。
 「気をつけて行ってくるんだぞ」と、子どもを送り出す親のような調子で言うアルスラーンに恭しく優雅に一礼し、踵を返しかけたギーヴは、ふと思いついて、もう一度アルスラーンに向き直った。
「殿下、わたくしからもひとつ、お教えできることがございます」
 改まった口調に、アルスラーンは小さく首をかしげた。ギーヴは微笑して続けた。
「一夜に訪れることができる国は、一国だけとは限らぬのですよ。――では、行ってまいります」



「……と、ギーヴが言っていたのだが、どういう意味だろう?」
 アルスラーンは生真面目な顔で、ダリューンとナルサスに視線を向けながら尋ねた。天文学の講義の最中、肝心の弟子二人が、何か別のことを難しい顔をして考えている様子だったので、気になったナルサスが「どうかなさいましたか、殿下」と尋ねると、アルスラーンは先ほどのギーヴとの会話を披露したのだった。聡明なエラムも、意味を図りかねて首をかしげている。部屋の隅に控えたジャスワントは、年少の主君の突拍子もない質問に目を瞠った。ダリューンは彫像のように表情を失って黙り込み、ナルサスは思わず天を仰いだ。アルフリードとファランギースが出かけてくれていてよかった、と思わずにはいられない。
 さて、この質問に答えてよいものか。ナルサスが眉をしかめて苦悩していると、黙りこんでいたダリューンが突然立ち上がった。
「どこへ行く、ダリューン」
 訝しげにダリューンを見上げたアルスラーンに、ダリューンはこわばった笑みを向けた。
「ちょっとギーヴを斬ってまいります」
「ままままま待て待て待て待て!! 落ち着け!!」
 慌ててナルサスがダリューンを引き止める。ジャスワントも駆け寄ってきて、ダリューンを必死で押しとどめた。
「ダリューン卿、落ち着いてください!」
「はなせ! あの遊び人め、おれが釘を刺した側から殿下に余計なことを吹き込みやがって!」
「ただでさえ少ない仲間を減らすな! それにもとはといえば、おぬしがギーヴに余計なことを言うから、面白がって吹き込んだんだろうが!」
 乱闘寸前の大の大人三人を我に返らせたのは、少年主君の冷静な言葉だった。
「私の質問で困らせてしまっているのなら、すまない。しかし、聞いてしまったからには、最も信頼できるおぬしらに教えを請いたいのだが、教えてはもらえぬだろうか」
 アルスラーンはあくまで真面目だった。三人は思わず姿勢をただし、「はい」と声をそろえた。

「……なるほど。つまり、男女が睦み合う方法は、一対一で寝室にておこなうものに限らぬというわけだな。人数、場所など、相手との合意があれば、自由におこなってよいと」
「御意」
 生真面目に講義の内容を反復したアルスラーンに、ナルサスは生真面目に頷いた。これほど困難な講義は初めてだ。まだ用兵学や政治の講義を三日間ぶっ通しで行うほうが気楽であった。真剣な顔つきで頷いているアルスラーンを見ると、何やら後ろめたい気になるし、愛弟子エラムの視線が、講義が進むにつれて冷たくなってきたのも、師としては悲しいことである。後ろではらはらと見守っているジャスワントはともかく、横から感じるダリューンの“なんてことを教えるんだ”とでも言いたげな、刺すような視線は鬱陶しい。代わりにやってみろ。
「ふむ、奥の深いものなのだな。ありがとう、ナルサス」
「恐れ多いことでございます」
 ナルサスは深く息をついて一礼した。とにかく務めは果たした――安堵するナルサスに、アルスラーンがふと尋ねた。
「ひとつ分からぬことがある」
「は、何でございましょう」
「ギーヴが言ったのは、つまり複数の女性と一夜をともにするということだな。複数の女性と同時に過ごすか、時間を区切って一人ずつ次々と招くか、いずれかの方法で」
 主君のいたって生真面目な言葉の調子が、かえってその内容の際どさを浮き彫りにした。ナルサスも固い口調で「そうであろうかと存じます」と答えた。疑問に思った点を率直に尋ねるのはアルスラーンの美点だが、この場合はあまりありがたくなかった。聡明で素直な主君の人生が、この夜をきっかけに大きく狂ってしまうのではないか、という不安がよぎる。そうなったとき、未来の宮廷楽師と未来の宮廷画家と、いずれの責任が大きいだろうか。ナルサスの内心を知らず、アルスラーンは続けた。
「いずれの方法にしても、ギーヴらしくないと思うのだが、どうだろうか」
「……と申しますと」
「町の者から、ギーヴの話を聞いたことがある。一人の女性をとても熱心に口説き、部屋へ入ったあとは朝まで出てこなかったと」
「……あの、失礼ですが、殿下はその話をどこでお聞きになりましたか」
「ああ、昨日エラムと遊びに出て、立ち寄った果物屋で客が話していたんだ。妓館の客だったらしい」
 けろりとそう言ってから、アルスラーンはエラムに視線を向けた。
「遊びに行ったことは内緒にする約束だったのに、話してしまった。ごめん」
「……今はそういうことが問題になる状況ではないと思います」
 エラムは淡々とした口調で言った。アルスラーンは「そうかな」と言うと、ナルサスに向き直った。
「ギーヴのそういう振る舞いからすると、先程の方法はギーヴらしくないと思うのだ。どうしてギーヴは、そんなことを言って出かけたのだろう」
「あの……それはおそらく」
 黙って話を聞いていたジャスワントが、控えめに声を発した。ジャスワントの視線を受けたナルサスは、頷いて、溜息まじりにその続きをひきとった。
「要するに、からかわれたわけですな、殿下も我々も」
 少年二人ははぽかんとした表情で互いに顔を見合わせ、ジャスワントは苦笑をこらえる表情になり、ダリューンは一瞬の空白のあと、目をむいて怒りをあらわにした。ナルサスはもう一度、盛大なため息をついた。
 まったく恐ろしい男だ。たった一言で、こうもパルス軍首脳部を混乱させるとは。
 あの楽師を味方にしておいて本当によかった!



「そんなことを、大真面目に話し合っていたわけか」
 ギーヴは呆れた口調で言うと、爽やかな朝の光に満たされた部屋の中を見回した。パルス最高の勇将と智将が、疲れきった顔でぐったりと項垂れている。どれほど過酷な戦場でもこうはなるまい、とギーヴは思った。苦悩に満ちた大人たちの表情とは対照的に、ひとしきり好奇心を満たして満足したらしい少年たちは、長椅子の上で安らかな寝息を立てていた。少し距離を置いて彼らの様子を見守っていたジャスワントは、ギーヴの視線を受けると、苦笑して肩をすくめた。
「つくづく平和なことだな」
「……誰のせいだと思ってるんだ」
「さあねえ」
 ダリューンの恨みがましい視線を、ギーヴはけらけらと笑って受け流した。ふう、と深いため息をついたナルサスは、あらためてギーヴを見やると、苦笑まじりに尋ねた。
「で、どうなんだ。実際、一晩に何カ国まわれるものなんだ?」
「ふん。このギーヴさまが、そんな無粋なことをするものか」
 答えたギーヴの、皮肉な笑みと冗談めかした声にひそんだ真摯さに気づき、ナルサスは表情をあらためた。ダリューンもわずかに目を瞠っている。二人の視線を受けて、ギーヴは朗々と、宣言するように言った。
「国の数だけ女がいるんじゃない。女の数だけ、美があるのさ。ひとつひとつ、きちんと愛でてやらねば失礼だろう」
「……なるほど」
 ダリューンとナルサスは視線を交わすと、苦笑を交わした。彼らの主君は偉大であった。
「おれは数さえこなせばいいなんで阿呆じゃないぜ。誤解せんで欲しいものだな」
「そうだな、悪かった」
「殿下にも、そのへんのことをきちんと伝えてもらわねば困るぞ」
「伝える必要などないさ。しかし、そもそも、おぬしが殿下に余計なことを吹き込むから……」
 ダリューンが憮然として呟いたとき、アルスラーンが長いすの上で寝返りを打った。小さな声を漏らしながら目を開け、ゆっくりと身を起こす。つられるように、エラムも目を覚ました。小さなあくびをしたあと、アルスラーンは、ダリューン、ナルサス、エラム、ジャスワントの顔に視線をめぐらせながら「おはよう」と言い、ギーヴに視線を向けると、笑みを向けながら言った。
「やあ、お帰り、ギーヴ。旅は楽しかったか?」
「ええ殿下、勿論です。今度は天文学のご講義のない折に、ぜひご一緒にいかがですか」
「うん、そうだな。昨日の講義はなかなか興味深かったし」
 アルスラーンの気軽な返答に、側近たちが目をむいて凍りつく。室内に満ちた異様な緊迫感を気にすることもなく、アルスラーンは笑って続けた。
「だけど私はまず、己を磨くことに専念するとしよう。未熟な男が相手では、女性に対して失礼にあたるだろうから」
 真面目で屈託のない主君の言葉に、エラムとジャスワントは笑みを交わし、ダリューンとナルサスは安堵のため息を漏らし、ギーヴは優雅な一礼を捧げたのだった。

「おはよーう。ファランギースの部屋に泊めてもらっちゃった」
 弾むような足音とともに、アルフリードの元気な声が飛び込んでくる。アルフリードのあとについて、ファランギースも優雅な足取りであらわれた。途端にギーヴは、くるりと身を翻してファランギースに向き直り、芝居の役者のように両手を広げた。
「おお、我が麗しのファランギースどの! 朝からお会いできるとは光栄の至り」
「妓館からの朝帰りのあとでは、いつにも増して軽薄に聞こえるのう」
「それは心外。例えあまたの花を愛でようとも、おれの真心はファランギースどのお一人のために捧げているのに。しかし、冷たいお言葉でさえ、薔薇に光る朝露のごとく清々しいことだ」
 ファランギースの冷たい視線も皮肉も、ギーヴにはいっこうに苦痛ではないらしかった。
「一晩中遊んできたくせに、何で朝からあんなに元気なのだろうな」
 溜息まじりのダリューンの呟きに、アルフリードの非難の声が重なった。
「ちょっとギーヴ、また妓館に行ってきたの!? 信じらんないっ。ねえ、ナルサスも何とか言ってやってよ!」
「いや、おれは……」
「ナルサス卿とダリューン卿は一昨日の晩に行っていたよなぁ」
「おいギーヴ!」
「やだっそれ本当!? もう信じらんないっ! ナルサスの馬鹿! すけべ!」
「待て! 何でおれの話まで出した!」

 仲間たちの会話を聞きながら、アルスラーンはエラムと顔を見合わせ、笑いあった。
 彼らには今はまだ、こんな会話の方が楽しいのだった。